大人の中の子供井戸端会議

2023年05月24日

依存からの脱却

結婚してからこれまで30年近く欠かさず、
贈り物を持って訪ねていた母の日に、今年はあえて行かなかった。
年賀状のやりとりをやめようと思い立つのと同じだと思う。
気持ちの入らない形だけのものに、時間とお金をかけるのをやめた。
いや、やめたいと思って、やめられるかどうか自分を疑いながら、
今年の母の日が近づき過ぎていくのを、黙って待っていた。
年老いた母が私の訪問を待っているかもしれないと思うと、
心拍数が上がった。
それでもそこは正念場。この機を逃しては泥沼だと思った。

私には3人の子供がいて、3人とも社会人で自立している。
私は真ん中の長女とだけ、一緒に住んでいる。
せっかくの母の日に、そういうわけで、
私は自分が母親であることなど全く考えていなかった。
そこにLINEの着信音が鳴って、
長男からカーネーションの絵の付いたLINEギフトなるものが届いた。
今どきこんな簡単に、謝意を示したり贈り物を届けたりできるのだ。
初めてのことに促されるまま、チーズケーキを受け取る手続きをした。
そして長男にお礼のメールを入れた。長男はいつも多くを語らない。
それでも母の日だと世間が騒げば、
彼が思い浮かべるのは私しかいないのだと思うと、
私のもとに生まれて成長してくれたことに感じ入る。
気遣いの娘からは、洋服をもらった。
若者らしくお洒落に関心のある娘には、
関心の薄い母親にも、外見を気にしてほしいのかもしれない。
母の日に遅れて、その娘の誕生日が来た。
二男は、母の日と娘の誕生日をまとめて、
遅まきにロールケーキを贈ってきた。
娘は、長男からもチョコレートケーキを贈られたとかで、
我が家はスイーツだらけになってしまった。
気遣いならいらないと思う。
でも、子ども達に私という母親が生きていて、
謝意を示せることが喜びであるなら、ありがたく受け取る。

毎年贈り物を持って訪ねていく私に、以前母が言ったことがあった。
「あんたこそ忙しい母親なんだから、
 気を使ってこんなこと、もうやめなさい。」
その気持ちを私はありがたく受け取ったのだけれど、
やりたくてやっている自分の気持ちを優先して、
その後もずっと続けていた。
母が少しでも喜び、楽しく明るく前向きになる情報を、
年に一度お届けしたい、私の喜びで容易いことだった。

母は、娘たちや孫たちを大げさに歓迎する。
生き甲斐だとまで言うし、実際そうなのかもしれない。
だから私には、母を支え喜ばせることができるのだと思っていた。
そしてそれが良好な親子関係だと思っていた。
でも違った。それは、小さな子供の頃からの無意識の習慣。
私は母の一言一句に敏感に反応して、
母の精神状態をケアしようとし続けてきたのだった。
母は表裏のある、安心して一緒にいられない人だった。
本当は、そうして気遣っていないと、
母と、母と繋がっている自分を守ることができない、
不安定な依存関係のままだった。
私が母を喜ばせることができるのなら、
裏を返せば、落胆させ悲しませることもできる。
悲しませないように喜ばせようとし続けた私は、
子育てを終えた母自身が、
世話から解放され、子離れをして自分の人生に返るのを、
応援どころか、邪魔をしてきたのかもしれないと思う。

邪魔をしてきたのは私だけではない。
父は、母に身の回りの世話だけを許し依存し、
母が自分より前に出ることを、好まず邪魔をする。
母の新しいことへの挑戦を、お前はダメだ無理だと貶める。
女子供や妻の上に大きくいたいのは、小さいからなのだろう。
母は不機嫌に悪態をつきながら、
支配されているだけの無責任な生き易さに甘んじる。
母に妻や母の役割を続けさせ、依存状態を許してきたのが、
母のためだったのか、望みだったのか分からなくなる。

母からLINEで連絡が来た。
察するに、毎年恒例になっていた母の日に私が訪ねなかったから、
訪ねられないような事故や病気でもあったのではないかと、
心配になって・・・とでもいうのが表向きの理由だ。
みんな元気でいますかと始まって、
爺も婆も元気ですが、歳のせいか疲れが出ます。とある。
みんなの様子を教えてください。お願いします。という。
前回同じ内容でLINEが来たのは、わずか1ヶ月ちょっと前だ。
前回と同じように、私の知る、子ども達それぞれの様子を返信した。
それを読んだ母の返信はこうだった。
「皆さんお元気で嬉しい便りをありがとう。
 今夜はぐっすり眠れそうです。」

母も贈り物がほしいのではないということは分かる。
母の日の訪問をやめたことを、伝えるかどうかは迷った。
本音を言わずとも、忙しくしているとか節約したくてとか、
何かしら理由をつけて、母の日をやめたことを伝えることもできた。
でも私はもう、母を安心させたいのではなく、
自分を生き抜いてほしいのだ。
歳のせいで疲れが出るとか、言いたいだけの泣き言。
私の便りで眠れるとか、感謝の顔をした要求に、
これまで反応してきてしまったことを悔いているのだ。
疲れたら休み、自分で癒やし、眠れないなら眠れるように、
年寄りだって自分でするべき工夫や対処をするものだ。

予想通りで、母の日をやめた自分に迷いがなくなった。
「何かあったら駆けつけます。元気でいて下さい。」と返信した。
何かあったら駆けつけるのは嘘じゃない。私はそうすると思う。
そして私は動揺することなく、落ち着いて対処すると思う。
私が何かをしたり、しなかったりして、
母の何かは起こるわけじゃない。
母に、不都合を誰かのせいにする理由は与えない。
母のことは想っても、もう母の依存に手を貸すことはない。
私の依存は、そうして脱却を試みる。


kuturoguhebitomomi at 13:41│Comments(0)

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